【あれから26年】
「みんな元気出してよ!!
負けたらアカンで!! 大丈夫やで!!」
震災から約一週間後
私は在らん限りの大声で
どこまで続くのかわからない長蛇の列の
最後列に向かい声を上げていた
三宮の店は全壊し
元町の店もダメかもしれないと
思いながらも諦められず
それでもせめて少しでも
想い出になるものだけでも
取り出せないだろうか?
余震に怯えながら昨夜は一睡も出来なかった
震度4〜5クラスの余震が絶え間なくやってくる
その都度身体が硬直したようになる
「これからどうする?」
頭の中で答えのない想いがグルグル回る
家族だけではない
多くはないけど私たちを慕ってくれる従業員もいる
連絡が取れたのはほんの一部で
全く連絡もつかず
生きているのかさえ分からない従業員や友人達
やっと連絡が取れたら
「妹が亡くなりました」
「家が全壊でした」
「両親が行方不明です」
そんな電話が相次ぎ
自分の家族が元気で生きていることすら
申し訳ないような気持ちになったのです
しかしこの私が諦める訳にはいかない!
幼い子供達や家内の不安そうな顔を見て
気持ちだけでも
しっかりしないといけないと考えたのです
翌朝、真っ黒で灯りが見えるのは
燃え上がる火だけといった街を車で走りながら
どうか陥没した道に落ちないようにと願いながら
ひとり神戸元町の店に向かったのです
変わり果てた店の前で
瓦礫をひとつひとつ片付けながらいると
その当時の従業員たちが一人一人現れて
お互いの生存を喜びあったのです
その時、自分の中で
全く違う発想が出てきたのです
今思えば、何故そんな風に考えられたのか
不思議なことですが
とにかく生きていかなければいけない
泣いている訳にいかない
不謹慎ながら私は
これはひょっとしてチャンスになるかも?
そう思い、残った従業員に対し
「すぐに店を再開する!手伝ってくれ!」
キョトンとした従業員たちに
「やれば出来る!負けたらアカン!」
ガスも出ない、水も出ない
かろうじて電気だけが通るこの店で
なんとか再開しようと考えたのです
全てが止まったこの街でひとつの明かりを灯す
とにかく何かに押されるように
エネルギーが湧いてきました
「絶対に負けない!」
その想いだけでございました
しかしそれからが大変!
六甲山の湧水を毎日汲みに行き
カセットコンロ、コーヒーカップを掻き集め
一週間後には再開したのです
当時
コーヒー一杯の値段は350円だったのですが
「コーヒー一杯200円!」
メニューはそれだけで
なんとか営業にこぎつけると
朝6時頃の営業スタートで
その日のコーヒーの売り切れまで営業を続け
夕方6時くらいまでに約2,000杯以上の
コーヒーを売り上げたのです
そんな毎日が何ヶ月も続きました
休みなどなく毎日が必死でありました
あれから26年
元気だった両親は亡くなり
幼かった子供達はそれぞれ家庭を持ち
あの激しく揺れた神戸の街も変わりました
1月17日のこの日
毎年ブログに書くのは
震災によってたくさんの方が犠牲になられた
残された私たちは
どんなかたちでも語ることによって
どんな時であっても
あの震災を絶対に忘れてはいけないと思うのです
最後までご愛読ありがとうございます
しかし今日は暖かい
あの日はあれだけ寒かったのに
Posted at 09:39