【母が教えてくれたこと】
1月4日 母が生きていたら89歳になっていた
お風呂上がりにバタっと倒れたと
父親から連絡が入り
急いで車に乗り込み病院に駆けつけた
その病院に着くまでのことを
私は今でもはっきりと覚えている
「大丈夫やろ。。何もないって」
ひとりごとのように
私は家内の横で呟いていた
車で30分はかかったろうか?
深夜だったので出来る限り冷静にと
夜間受付の事務員さんに名前を告げると
「こちらでお待ちください」
と言われ
するとすぐ父親が診察室から出て来て
「アカン。。
お母ちゃんアカンかもしれんぞ
こっちにおるから」
父親を置いて母親の元に行った時には
私を判別出来ないようで
明らかにとんでもないことが起きた。。
と思ったのです
大きな声で
「オカン!オカン!!昭二や!わかるか!?」
必死になって声をかけたのですが
力のない焦点の合わない目で
私をじっと見てすぐに目を閉じたのです
医師から
「脳梗塞です。今晩がヤマになります」
そう説明を受けても全く受け入れることが出来ず
手術が終わる明け方まで家族控室で待ったのです
しかし手術は成功したものの
かなり酷い後遺症が残ると聞き
それでも生きていてくれたら
それで良いと思ったのです
しかし、手術成功の3日後に
もう一度脳梗塞が起こり
命は助かったけれどそれから10年以上
胃ろうをしたこともあり
病院での寝たきりの生活が始まったのです
動かすことが出来るのが右手だけで
両足は全く動かすことが出来ず
気管切開していたので話すことも出来ず
それでも入院してから1年くらい経った時には
車椅子に乗りリハビリを始めることも出来
また少し話せるようにもなったのです
それでもほとんど会話が成立するようなことはなく
私の話を時に頷く程度でした
しかしある日
これは一度だけ本当に一度だけですが
私がひとりで病室に居る時
何かを話したそうにするので
顔を近づけてゆっくり聞き逃さないよう
母の口の動きを追いながら確認していくと
「しょうじ。。お願いや。殺して。。」
涙を浮かべ私に懇願するのでした
「お母ちゃん、何ゆうとんや
何でそんなことゆうんや。。」
それはそれは私にとってとても残酷な言葉でした
「お母ちゃん。。おまえらに何も出来ひん。。
な。頼むわ。。殺して。。」
まさかそんなことを考えているとは
思わなかったので
その時は逃げるように病院をあとにしたのでした
母親が亡くなってあれから8年の歳月が経ち
今、思うのは
あの母親の苦しみは病気で動けなかったことより
自分の身体のせいでみんなが苦しんでいる
とにかく家族や人に尽くすことが大好きで
誰かの役に立ちたいと底抜けに人の良い母親が
全く何も出来ないことが死ぬより苦しかったのだと
人に笑顔を与えることが出来ないことが
ただただ辛かったそう思えるのです
「しょうじ。ええか。
みんなに優しくせなアカンで
それとな、クスッと笑ってもらうくらいで
ちょうどええんや人間は(笑)」
子供の頃貧乏で学校も行けなかった母親は
勉強ではなく口グセのように
生き方を私にそう教えたのです
「笑われたないわ!」
と言うと
「おまえはアホやな(笑)
大きなったらわかるわ」
それが母の遺言だと思い
またその言葉の深い意味がこの年齢になり
少しだけわかったような気がするのです
「オカン。。どうや?
俺笑ってもらえてるか?」
最後までご愛読ありがとうございます
時の経つのは早いなぁ
Posted at 09:39